· 

ぼくの、松下育男小論①

松下育男さんの詩を思うとき、いくつかのことが浮かんでくる。それは松下さんの詩を読んだときに感じた惹きつけられた感覚のさまざまを、言い当てようとして浮かんでしまうキーワードのようなものである。例えば、グロテスク、カルト、マザコン、トラウマ、アリスのような世界、などがある。当然のことながら、松下さんの詩をグロテスク詩だとか指差しするように説明がつくものではない。(荒川洋治さんはソフトなカフカでソフカと称していた頃もあった)松下さんの詩に見られるこうした彷彿とさせる何かは一面にすぎない。松下さんの詩はどこか共通する特異な世界観を保ちつつも多様である。その多様なイメージは松下さんの一番身近な会社や家族、生活などへの眼差しから始まる。あるいは物であったり身体の部位であったりと、極めて了解済みの当然の事柄にこそ松下さんの詩の目は向けられていく。この性質は、しつこい程の一貫性でもって貫かれている。近年の松下さんの「初心者のための詩の書き方」は、その究極のかたちで差し出されたものといえる。松下さんにとってほんとうに一番身近な詩に眼差しが向けられているのだから。とは言え、ここではやはり、松下さんの最初期の詩から見ていきたい。

 

 

 

     一

 

 

 

深い

 

溝が掘られていて

 

扉までとべるかどうか

 

わからない

 

 

 

ぼくの部屋の前に

 

溝を掘ったのは

 

だれだろう

 

 

 

すでに一日

 

ちからは使い切ったあとで

 

この溝をとびこす

 

どのような方法も

 

思いつかない

 

 

 

ずるずると溝の斜面を落ちて

 

落ちきったところで暮らす

 

 

 

     二

 

夕方

 

少し疲れて帰ってくると

 

きまって人々が

 

訪れる

 

 

 

いつものように

 

みんなで列をなして

 

ぼくの背中を押す

 

 

 

長いつらなりに背中を押され

 

気持ちよく遠くまで

 

来る

 

 

 

毎夜

 

人々がぼくを

 

遠くへ運ぶのは

 

なぜだろう

 

 

 

考えながら

 

解散した人々のあとを

 

帰ってくる

 

 

 

     三

 

 

 

真夜中

 

ぼくの部屋のぐるりに

 

苦労して高い壁をたてたのは

 

だれだろう

 

 

 

陽がいつまでたってもさしこまず

 

寝過ごす

 

 

 

あわてて扉をあけ

 

出かけようとするが

 

その壁に

 

ぶつかる

 

 

 

もう帰ってきたのに

 

家族は驚かない

 

(個人詩誌『榊』より「帰る」全行)

 

 

 

 松下さんの詩にいくつも見られる光景が、最初期の個人詩誌の冒頭を飾るこの詩にもある。自分の家の自分の部屋という極めて個人にとって当たり前の場所、言い換えればプライベートな空間に目は向けられている。自分の部屋にさえ、阻むものがあり、スムーズにいかない状況が描かれる。松下育男さんの詩で自分の部屋が登場しているとおもわれるものに、「部屋」、「敷居」、「川」、「綱引」などを容易に挙げることが出来る。(「タンス」、「棚」、「椅子(は立ちあがる)」、「ふすま」、なども結局、部屋のなかにあるものと考えれば、松下さんの初期詩編の大半が自室あるいは家の中から展開される)そして風呂場というイメージも松下さんにとって大切で特別なモチーフであることが確認できる。第一詩集『榊さんの猫』では「水を汲む」として、第二詩集『肴』(H氏賞)では、「貝」などに風呂のイメージは登場する。そして個人詩誌『榊』にも、そのままずばり「風呂場」という詩がある。

 

 

 

でもそれでは

 

理由にもなんにもなっていない

 

 

 

あるはずのない奥座敷が

 

ぼくの部屋の

 

どこをめくりあげてもないからって

 

 

 

もともと狭い部屋の

 

さらに大きな面積をとって

 

おとうさん

 

なぜぼくの部屋の隅をけずりこんで

 

風呂場をつくらなければならないのですか

 

 

 

特に疲れて

 

勤めから帰り

 

眠りかけたぼくの枕元に水の音をたてて

 

風呂をわかし

 

近所の人が列をなしてぼくの脇を歩いて風呂につかるのは

 

耐えられない

 

 

 

今夜

 

ぼくはぼくの風呂場を頭脳の奥座敷につくり

 

細いホースをつないで

 

おとうさん

 

どくどくぼくをあなたからぬいてしまう

 

(個人詩誌『榊』より「風呂場」全行)

 

 

 

 このごくごく最初期のこの詩に、既に見て取れる松下育男さんの詩を語りうるにキーとなるような「脇」ということばや、独特な奇想の展開、詩のなかで展開される水浸しで台無しなイメージの萌芽を感じる。すこし大胆に表現するなら松下さんの詩を読むときに感じる感覚は、乾いているのに湿っている、水の存在と隣り合わせの場所である。(これは冗談だが『榊さんの猫』でも『肴』でも詩集自体が一度水に浸かってから揚げられたものを読んでる気がする)その少し湿ったときになまぐさい感覚は第一詩集の詩に登場する鶴や鮫などに顕著に表されているところである。詩で松下さんはあっちへいったりこっちへいったりすることなく、徹底して自分の部屋と会社、出勤と帰宅、出かけて、帰ってくるということを、ただ繰り返しているだけなのに、いつもおかしいし、不安定である。

 

 

 

(ぼくの、松下育男小論②へ続く)