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ぼくの、松下育男小論②

松下さんの第一詩集『榊さんの猫』は一九七七年三月に紫陽社から、グッドバイ叢書・2として刊行された。(グッドバイ叢書は他に、三橋聡詩集『アルルカンの挨拶』、目黒朝子詩集『風時計』、菊池千里詩集『赤頭巾ちゃんへの私的ディテール』、島田誠一詩集『木のぼり魚と』を刊行)一九七七年には阿部恭久詩集『身も心も明日も軽く』や園下勘治詩集『最期の三輪車』、垂水千賀子詩集『現われるものの朝』、堀亜夜子詩集『光と闇の二相系』、清水鱗造詩集『点点とおちてゆく掌の絵』なども刊行され、一九七七年十二月の現代詩手帖年鑑では、清水哲男による展望「新しい詩人たちの印象」などや、同年十月号の特集「抒情のありか 七十年代の新鋭」では鈴木志郎康による「三十人の新しい詩人たちを検討し批判する」などで詳細に言及されている。松下さんも七十年代後半の新鋭として紹介されていくのだが、第一詩集に触れる前に、この年の手帖十月号「特集抒情のありか 七十年代の新鋭」の荒川洋治による「技術の威嚇」で松下さんが言及されている部分を引用したい。

 

松下 感動できるっていうことなんですね。文学研究家や評論家なら感心に値する詩っていうのは大きな問題なんでしょうけど、ぼくなんかサラリーマンだし、できるだけ詩に胸をうたれて死にたいと思っている。だからもう感心したくないなって……。読者に感動を与えるってことはどういうことか、詩人たちはもう一度ハシゴを降りて考えてみるべきなんじゃないかって……。

 

 これは先ごろ読むことのできた松下育男のことばである(松本勝義との対談「同時代詩の切開」「小人」五号)。

松下は、感動の磁場をあらためることをとおして、なにごとかを突こうとしている。

 

 当時の荒川洋治が書いた、感動の磁場をあらためることをとおして、なにごとかを突こうとしている、という部分にも深く頷いてしまう。(この小論ではもう少し先のほうで一九七九年四月の「特集同時代を探る <多様性>という病」における座談会「いま、詩を書く現場から」での松下さんのことばも引いてみたい)

 

 松下さんの第一詩集『榊さんの猫』そのものに移そう。『榊さんの猫』は十五編の詩を収録している。扉には詩集一九七三―一九七六とある。この詩集の最初に収録された詩「今朝」を引く。

 

今朝

あなたはまだ

折りたたまれていますね

あなたであることの

ひろがりは

脇のほうから ひとたばに

 

(松下育男詩集 『榊さんの猫』より「今朝」全行)

 

 たった六行の詩で、松下さんが手帖に投稿し、当時の選者石原吉郎の選を受けたもので、第一詩集の冒頭に置かれた。このとても短い詩にも松下さんの詩のエッセンスが詰まっている。この第一詩集に出てくる鶴のイメージの伏線として、松下さん特有の身体性の詩の萌芽として、瑞々しい鮮明なイメージで読者を魅了する。この詩集の序詩的な役割としても読めるし、松下育男という人の詩の、はじまりの詩と捉えることの出来る傑作である。松下さんの詩には朝方のイメージ(朝起きてからの時間)を想起させるものが多い気がする。このたった六行を眺めていると、まだ読み切れていないなにかを、いつかふいに発見出来そうな気がしてくる。そして次の二つ目の詩「棚」を引いてみよう。こちらも僅か九行の詩である。

 

休みの

棚を上の方につくった

 

のせなければならないこまごました物たちが

下の方にあふれてきたからだ

 

次の日から

出勤のため毎朝

棚の上からとびおりるのが

つらい

 

(松下育男詩集 『榊さんの猫』より「棚」全行)

 

 この詩「棚」は松下さんの詩を語るときに、メルクマールとなりうる印象的な詩の一つである。口で説明するのは困難を要するが、感覚としてわかってしまうことがあり、(それこそが、詩を読んだり書いたりするとき味わう醍醐味であるのだと思うのだが)その感覚を少し的外れになるなと思っても思い切って言ってしまうことも出来るのだが、そこまでの勇気も自信もないというのが本音のところである。夢でうなされるような感覚が松下さんの詩を真剣に語ろうと思えば思うほど感じるのである。だからといって、この第一詩集が奇妙な世界観で埋め尽くされたものであるとか、暗いイメージに覆われているかというと、そんなことはなく、ユーモアと(良い意味での)軽さを持ち、どこか人生の、生活者への応援歌詩集というようなところさえも感じ、一概には言えない。「棚」もまた「今朝」と同様に、二つ目の序詩的役割を担ってそうである。この詩集に描かれた会社員らしき主人公の最初の挨拶の詩であるわけだし、『榊さんの猫』という詩集のなかの物語(世界観)の導入詩である。詩「棚」についての考察は、『新鋭詩人シリーズ8 松下育男詩集』に収録の渡辺武信による解説「呟きから唄へ 松下育男論」に詳しいところである。 (ぼくの、松下育男小論③へ続く)