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古本屋のおじいさんが水上勉全集をくれた話

むかし古本屋が好きでよく通っていた。

ただし通っていたといっても、たった4軒の古本屋だけだったので、世の古本通の方々には顔向けができない。

 

それらの古本屋は下北沢と町田にあった。

下北沢は、幻游社と白樺書院。

町田は、高原書店と成美堂書店。

2020年1月現在で、これらのお店はすべてない。

 

いろいろな思い出があるが、ここでは、幻游社の思い出のひとつを書く。

 

幻游社は下北沢の南口商店街のなかにあった古本屋さんで、2012年の6月17日に閉店するまで、40年ちかく商売をしていた。立ち寄ったことはなくても、下北沢へ行ったことがあれば見かけたことはあるのではないかとおもう。

 

入りやすさと、本がたくさんある雰囲気が好きで、なんとなく高校生のころから通うようになった。店主は小柄なおじいさんで、均一本や棚の本を帳場へもっていくと、値段をちらっと見てシャキッとした声で「ひゃくえん!」とか「ろっぴゃくえん!」とかいうのだった。

 

十数年間通っても、ほとんど親しい口をきいたこともなかったし、向こうもしたことがない。わたしが一時間以上店内にいても何も言わない。でもそれが居心地の良さだった。

 

2012年6月のある日、しばらくぶりで下北沢にいってみると、お店の中の様子がおかしい。

パンパンだった棚に、空きが目立つ。

「お店閉められるんですか?」とわたしは店主に聞いた。

「うん、来週」と店主。

「さみしくなりますね」とわたしがいうと、

「そこのイタトマ(※イタリアントマトが当時あったが今はない)にいるから」

「幻游社ってどういう意味なんですか?」

「まぼろしに遊ぶってことだよ、そういうふうに暮らしたいってことよ、なかなかそうもならなかったけど」

 

わたしはその時の会話で初めて、店主の名前を知った。長沢さん。「君いつも来てたよね」と覚えてくれており、それ持ってってよと、棚に置いてある中央公論社版の水上勉全集26巻揃いを指さした…。

 

そこからいろいろあり、いまわたしの家の本棚には水上勉全集がある。

 

長沢さんに頂いた水上勉全集は、大変場所をとるが、自分が生きているうちは処分しないつもりだ。

とにかく読み切りたいと思っている。そこまでが長沢さんの遊びだと、思っている。