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なぜ詩を書いているか

他の人がどうかは知らないが、ぼんやりとした不安があるときに、詩を作りはじめることが多い。

会社に勤めてからは、良くも悪くも不安な気持ちでないことは少なく、だから10年ほど、断続的に書けている。不安は胃腸に良くないが、書くのは楽しいことなので、喜ばしいこととも思えている。

不安なときに書くとは言えど、不安な気持ちというのは、なぜ不安かわからないから不安なので、不安の「原因」をテーマに書くことはできない。

そうではなく、不安とは直接関係のなさそうなものごとを「詩にして書きたい」と思うことが、不安な状態のときにはたまにある。そして、詩ができあがっていく過程で、詩の中に人間関係や自意識や欲望や悲しみといった不安が、少しずつ立ち現れてくる。そこではじめて、ああ俺の不安はこういうことか、と気がつく。夢占いのようなものかもしれない。

例えば、一人暮らしをしていたとき。言うまでもなく、いつも不安を抱えていた。

仕事が忙しいのを言い訳に、洗濯は週一度だけ。1週間分のワイシャツやら靴下やらパンツやらを毎週末に一気に洗い、干す。

休日は昼まで寝ているので、夕方に洗濯して、夜、室内に干す。これが土曜ならいいが、日曜だと、次の日着ていくものがないのでは、と焦る。

そんなときに、ふと「部屋干しの竿は短い」などというような、ひとかたまりの言葉を思いつく。こうして書いてみると取るに足らないとしか感じられず、あまりに実感とかけ離れていて驚くのだが、思いついたときには心が浮き立っている。なんかいいぞ、いいフレーズだぞと思う。そして「これは詩になるかもしれない」と、さらに浮かれはじめる。

(何をそんなに「いい」と思ったのかは、うまく説明ができない)

とにかく、そうして、「部屋干しの竿は短い」の前後の言葉を考えていく。最初のうちはつまらないことが多く、何日も寝かすこともある。寝たまま起きない言葉も数多くある。

けれども、ああでもないこうでもないとやっているうちに、ふと、奇跡的に、不安の原因が引き摺り出されてきて、フレーズに引っ付くことがある。

「部屋干しの竿は短い」に磁力でもあったかのように、ずるずると出てくる。排便とか、詰まった鼻水が一気に出るときとか、鼻頭の角栓を押し出すときと同じ。これは気持ちがいいものだ。

そこからは、なんとなく自分が「形になった」と思えるところまで言葉を足したり引いたり変えたりして、それで一応、完成させる。まれに、すごくうまくできたなあ、と思った時は雑誌に投稿してみたりする。載ったらうれしいし載らなければ落ち込むけれど、詩を書くことの本質はそこにはないと思う。

それに、別に書いたからと言って、不安や心の荒みは解消しない。けれども形になることで、軽くなったように感じることができる。これもいいことだ。

そして、詩でもなんでも、作品として形にすることの尊さは「誰かにわかってもらえるかもしれない」という可能性にある、と思っている。それは詩を書くことの本質ではなくても、僕が大切にしていることだ。

 

このように、だから僕は詩を書いている。