さいきん長岡弘芳の遺稿集なる本(『さあ 馬に乗って 長岡弘芳遺稿集』)の存在を知った。版元は武蔵野書房。遠丸立・渡辺一衛の共同編集。読んでみたかったので、インターネット書店を探したが、取り扱いなし。そのままインターネットで版元の電話番号らしきものをみつけたため、在庫があるのか問い合わせたことをきっかけに、いろいろなやり取りが生じて、版元の主である福田信夫さんとお会いした。
西八王子駅で合流し、近くにある中国料理屋の金山村へ行った。いろいろな話をほんとうにおもしろく聞いた。福田さんは、山形の工業高校を出たあと、千葉県五井の出光興産に勤めていたが、このまま人生が終わるのはつまらない、と思ったらしい。昭和40年、二十歳ぐらいのころ。そしてどういう流れだったか、私が興奮しており聞いたお話を失念してしまったのかもしれないが、とにかく当時逗子にあった本多秋五の家の前まで行って、一時間ぐらい立っていた。進路を相談にいったつもりなのだが、いざとなると訪ねる勇気が出なかった。別に自分は何者でもない。でも何か思い立ってここへきてしまった。まごまごしていると、家の前へきた本多秋五の奥様が、何か御用ですか、こちらへどうぞ、と家へ招き入れてくれた、という。そこで福田さんは本多秋五と面談する。
そのあとの話はほぼ本多秋五の『古い記憶の井戸』のあとがきに書かれているとおりとのこと。(あとがきのコピーをいただいた)
福田さんは、本多秋五の奥様に、いまも感謝しているそうだ。
福田さんは、ワープロもパソコンも携帯電話も持っていない。使ったことがない。そういう人の本づくりとはどんなものなのか、想像がつかないと言うと、全部手書きですよ、とのこと。出版案内等は文案を紙に書いて、写植屋さんに発注していたそうである。でもよく考えれば、たしかにパソコンなどがない時代の方法はそれしかないのだから、この質問はやはり想像力が足りない典型の質問ということになるのだろう。
「何にもなくても気持ちがあればできるんですよ」と福田さん。
耕治人、遠丸立、長岡弘芳、松原新一、月村敏行、岡松和夫、保昌正夫、久保田正文。ほかにも名前が挙がった気がする。不思議な気持ちだった。ああこの人たちは、本の中でしか名前を見なかったこの人たちは、いま目の前にいてラーメンをたべて焼酎をロックで飲んでいる福田さんと会って話をした人たちなのだと。福田さんをとおして、いまも当たり前のように、生きているような気がしてきたのだった。
2時間くらいして、解散した。お互いにお礼を言い合って、駅で別れた。私は電車で、福田さんは乗ってきた自転車を押して歩いて帰った。